15分でわかるサルトル #4

地獄とは他人だ

A子さんがB君とホテルから出てくるところを、神田うのに見られてしまったとしよう。 A子さんの身体は、まさしく石のように固まってしまうだろう。このとき神田うのは、ギリシャ神話に登場する妖女メドゥーサである。


「あなた、芸能人なんだから、もっと、ちゃんとしたホテル使わないとダメでしょう?」と言うと、うのはニヤッと笑って行ってしまう。B君との交際を認めてくれたのかどうか、真意はわからない。


A子さんは、どうする? B君との交際は諦めようか?「神田うのの後輩」という衣装を着て生まれたかのように、衣装と自分との間に「無」はないかのように、石のように、物質のようにふるまおうか? A子さんの目には、うのの意識は見えない。見えるのは物質としての身体だけである。この際、目に見えない真意など気にせず、うの先輩を石であると思って、B君との交際を続けようか……。

事情は神田うのも同じで、A子さんの意識は見えない。かくして世界は相手を石にするか、相手に石にされるかの、メドゥーサ同士の争いの場となる。地獄とは他人だ。


人間は、自由である以外のあり方をもたない。しかし、どこまで行っても自由であるわけではない。A子さんの自由の限界には、神田うのが立ちはだかる。その他、多くの他人が、A子さんを取り囲む状況を形づくる。その状況に、A子さんは拘束される。


A子さんは、あらぬところのものであるような未来に向けて、自分を拘束し直さなければならない。いや、義務として拘束し直さなければならないのではなく、否応なく拘束し直すしかない。 なぜならA子さんは、自由である以外のあり方をもたないからである。これをサルトルは、自己拘束 engagement と呼ぶ。

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