昨日はB君の誘いを、きつい言い方をして断ってしまった。友達としてならいい人かもしれないので、今日はやんわり断ってみよう……と思っていたら、やはり、きつい言い方をしてしまった。昨日のA子さんと今日のA子さんとには隙間があり、やんわり断ろうと思っていたA子さんと、きつい言い方をしたA子さんとには隙間がある。
どうであれ、A子さんは隙間だらけである。そのような隙間を、サルトルは「無」と呼ぶ。A子さんならずとも、われわれ人間は常にそのような無を介在させつつ、自分自身と対面しているのである。
たとえば、私たちの目は私たちの目を見ることができない。しかし、一方で私たちの目は、コーヒーカップを見ることはできる。つまり、私たちの視線をコーヒーカップに向けることはできる。同じように、私たちの意識をコーヒーカップに向けることもできる。私たちとコーヒーカップの間には、距離(=無)があるからである。
目をつぶると視線を向けることはできなくなるが、見えないコーヒーカップに意識を向けることはできる。このとき、コーヒーカップに意識を向けるのを止めてみよう。意識はコーヒーカップ以外の何ものかに向いていることが、おわかりになるだろうか。
意識とは、常に「何ものかについての意識」である。
熟睡しているとき、意識は何ものにも向いていないのではない。意識そのものがないのである。意識が生じるとき、それは必ず「何ものかについての意識」である。そして、その何ものかと私たちの間には、「無」が横たわっている。
さて、私たちは意識をコーヒーカップにではなく、「B君とつきあわないはずの自分」に向けることもある。このように自分自身を含む何ものかとの間に無を介入させることで、ようやく存在するような存在を、サルトルは対自存在と呼んでいる。
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