会社員Cさんの本質は、必ずしも会社員ではない。満員電車に揺られながら、「いやだ、いやだ。会社に行きたくない」などと考えたりもするだろう。将来的には独立するかもしれないし、蒸発してしまう可能性だってなくはない。同じように神田うのの後輩A子さんの本質も、必ず「B君とつきあわないはずのA子さん」というわけではない。
それまでの日常。守ってきた習慣や規律。周囲(家族、会社、神田うの)から求められるであろう期待像。A子さんもCさんも、そういったものの外に(ex)立って(sistere)いる。人間は「実存する」のであって、単に「存在する」のではない。
これに対して石ころの本質は、どこまで行っても石ころである。「いままで雨に濡れてきた俺は何だろう」とか、「さっき小学生に蹴られた俺は何だろう」とか、それまでの日常の外に立つことはない。石ころは「存在する」のであって、「実存する」のではない。
以上がサルトルの、実存主義の大まかな構図となる。人間は「存在する」のではない。この点を彼の主著『存在と無』に即しながら見ていくことにしよう。
「無」というと、禅や老子を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれない。が、ここで述べようとしている「無」は、とりあえず、そんな東洋的無とは関係ない。もちろん、比較してみるのは皆様の自由である。
神田うのの後輩としてあるべきA子さん、つまりB君とつきあわないはずのA子さんと、実際にB君とつきあってしまったA子さんとは分裂している。つまり、A子さんの中には隙間が生じている。では、B君とつきあわなければ隙間は生じないのか?
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